普段何気なく着ている服にも、その形になった理由があります。特に長い歴史を持つスーツには、現代では気づきにくい昔の名残がいくつも残されています。
第126回雑学調査レポートでは、そんな「スーツ」に関する雑学をご紹介していきます。
スーツの背中にある切れ込み「ベント」とは?
スーツのジャケットを後ろから見ると、裾に縦長の切れ込みが入っていることがあります。この切れ込みを「ベント」と呼びます。
ベントの大きな役割は、ジャケットの裾を動きやすくすることです。人が歩いたり椅子に座ったりすると、腰や脚の動きに合わせてジャケットの裾も動きます。ベントがあると裾が開くため、生地が引っ張られにくくなり、ジャケット全体が持ち上がるのも抑えやすくなります。
現在のジャケットでは、背中の中央に1本の切れ込みを入れる「センターベント」と、左右に2本の切れ込みを入れる「サイドベンツ」が代表的です。切れ込みを設けない「ノーベント」もあります。
このうち、乗馬服との歴史的なつながりが特に分かりやすいのがセンターベントです。現在ではごく普通のスーツに使われていますが、その構造をたどると、馬に乗るための衣服に行き着きます。

18世紀の乗馬用コートにも背中の切れ込みがあった
センターベントにつながる構造は、少なくとも18世紀の乗馬用衣服で確認できます。
『The Metropolitan Museum of Art』が所蔵している1760年ごろの英国製ライディングコートを見ると、背面の裾に大きな切れ込みがあります。同館は、このコートの裾について、動きやすさを最大限に高めるため背面にベントが設けられていると説明しています。
当時の男性用コートは、現在の一般的なスーツジャケットより丈が長いものでした。このような長いコートを着たまま馬にまたがると、裾の生地が脚や鞍の周辺に当たります。背中側の裾がつながったままでは、脚を左右へ開いたときに生地が引っ張られやすくなります。
そこで役立つのが、背中に設けた切れ込みです。
中央に切れ込みがあれば、馬にまたがったときに後ろの裾を左右へ分けられます。ジャケットを体に沿った形に仕立てながら、馬に乗るときだけ裾を大きく動かせるわけです。

英国のメンズウェア専門サイト『Permanent Style』も、現代の一部のスーツジャケットに見られるセンターベントについて、ハッキングジャケットやライディングジャケットの特徴を取り入れたものだと説明しています。乗馬中にジャケットを自然な位置に収めるため、中央のベントが必要だったとされています。
そのため、「スーツのベントはすべて乗馬のために生まれた」とまとめるより、「センターベントには乗馬服の実用的な構造が受け継がれている」と考えると分かりやすいでしょう。
なぜ馬に乗るときにセンターベントが便利なのか
センターベントの役割は、馬に乗る姿勢を想像すると理解しやすくなります。
普通に立っているときは、左右の脚は比較的近い位置にあります。しかし馬に乗ると、鞍を挟むために脚を左右へ大きく開きます。
丈の長いジャケットで背中の裾が完全につながっていると、脚を開く動きに合わせて生地も左右へ引っ張られます。すると、裾が上へ持ち上がったり、腰や背中に大きなしわができたりします。
中央にベントがあれば、脚を開いたときに切れ込みも開き、後ろの裾が左右へ分かれます。必要なときだけ裾が開くため、ジャケット全体を大きく作らなくても動きやすさを確保できます。
乗馬用ジャケットとして知られる「ハッキングジャケット」にも、伝統的な特徴として長いセンターベントがあります。『Gentleman’s Gazette』は、ハッキングジャケットの代表的な仕様として、長いセンターベント、斜めのポケット、やや長めの丈などを挙げています。
さらに同サイトでは、センターベントはもともと乗馬のために設計されたもので、馬に乗るとベントが鞍の後ろ側で開き、ジャケットの前身頃が太ももの上に収まりやすくなると説明しています。
つまりセンターベントは、単なる飾りではありません。体に沿ったジャケットの形を保ちながら、乗馬に必要な動きだけを確保するための実用的な仕組みだったのです。
現代のスーツの祖先「ラウンジジャケット」もスポーツに使われていた
乗馬服と現代のスーツには、ベント以外にもつながりがあります。
現在のスーツにつながる重要なジャケットの一つが、19世紀に広まった「ラウンジジャケット」です。
『The Metropolitan Museum of Art』が所蔵する1870年代のスーツには、英国で「lounge jacket」と呼ばれていた、比較的ゆったりしたジャケットが使われています。同館によると、このスタイルは1860年代に登場し、田舎で過ごすときやスポーツをするときなどにカジュアルな服として着用されていました。
柔らかい生地と簡素な構造によって体を締め付けにくい一方、上下をそろえることでスーツらしい外見になることが支持された理由とされています。その後、このようなスタイルが広まり、現代の男性用スーツにつながっていきました。

現在のスーツには、会社や商談、式典などで着る改まった服というイメージがあります。しかし、現代のスーツにつながる19世紀のラウンジジャケットには、田舎で過ごしたりスポーツを楽しんだりするときに着る、現在よりカジュアルな一面がありました。
センターベントのような動きやすさを考えた構造が現代のスーツに残っているのも、こうした男性服の歴史を考えると理解しやすくなります。
「センターベント」とは?背中の中央に1本の切れ込みがあるタイプ
現在のスーツジャケットでよく見られるのが、背中の中央に1本の切れ込みを入れた「センターベント」です。「シングルベント」と呼ばれることもあります。
センターベントは、乗馬服との歴史的なつながりが特に分かりやすい仕様です。『Permanent Style』は、一部の現代的なスーツジャケットに使われるセンターベントについて、ハッキングジャケットやライディングジャケットを意識したディテールだと説明しています。
『Gentleman’s Gazette』も、シングルベントはもともと乗馬用に設計された構造だとしています。
もちろん、現在のビジネススーツでセンターベントが付いているのは、馬に乗るためではありません。歩く、座るといった日常的な動作の際に裾を動かしやすくする構造として残っています。
センターベントは背中の中央に切れ込みを1本入れるシンプルな構造なので、ビジネススーツだけでなく、スポーツジャケットやカジュアルジャケットでも広く使われています。
一方、ズボンのポケットへ手を入れるような動きをすると、中央のベントが左右へ開きます。そのため、ジャケットの後ろ側が大きく分かれて見えやすいという特徴もあります。
「サイドベンツ」とは?背中の左右に2本の切れ込みがあるタイプ
ジャケットの背中側に2本の切れ込みを設けたものが「サイドベンツ」です。「ダブルベント」と呼ばれることもあります。
センターベントが背中の中央から開くのに対して、サイドベンツは左右の切れ込みから裾が開きます。そのため、背中の中央部分の生地は残ったままです。
たとえばズボンのポケットへ手を入れた場合、センターベントでは中央の切れ込みが大きく開きます。サイドベンツでは左右の裾が動くため、背中の中央部分を比較的覆った状態に保ちやすくなります。
『Gentleman’s Gazette』は、サイドベンツについて、ズボンのポケットへ手を入れやすくなり、座ったときにも快適になりやすいと説明しています。
英国サヴィル・ロウのテーラー『Huntsman Savile Row』でも、同店を代表するビジネススーツの仕様として、1つボタン、斜めのポケット、サイドベンツを挙げています。
現在ではセンターベントとサイドベンツのどちらも一般的です。ただし、切れ込みが開く位置が違うため、動いたときの裾の広がり方や後ろ姿には違いが生まれます。
「ノーベント」とは?背中に切れ込みがないタイプ
すべてのジャケットにベントが付いているわけではありません。背中に切れ込みを設けない仕様は「ノーベント」と呼ばれます。
ノーベントでは、ジャケットの背面が裾まで一枚につながっています。そのため立っている状態では、背中から裾まで切れ目のないすっきりした形になります。
一方、座ったり脚を大きく動かしたりしたときには、ベントのように裾だけを開くことができません。動いたときの生地の逃げ方は、センターベントやサイドベンツとは異なります。
ノーベントは、特に伝統的なフォーマルウェアとの関係が深い仕様です。
『Gentleman’s Gazette』によると、初期のディナージャケットには背面のベントがありませんでした。その後はサイドベンツを備えたものも登場しましたが、伝統的なタキシードではノーベントが基本的な仕様とされています。
同サイトでは、センターベントについて、乗馬服を背景に持つスポーティーなディテールであるため、伝統的なブラックタイでは避けられてきたという考え方も紹介しています。
こうして比べてみると、ジャケットの背中にある切れ込みは単なるデザインではないことが分かります。センターベントには乗馬時の動きやすさ、サイドベンツには裾を左右から動かしやすい構造、ノーベントにはフォーマルウェアらしい切れ目のない外観という、それぞれ異なる背景があります。
まとめ
- スーツの背中にある切れ込みは「ベント」と呼ばれ、ジャケットの裾を動きやすくする役割がある
- センターベントにつながる構造は、少なくとも18世紀の乗馬用衣服で確認できる
- 乗馬時に背中の切れ込みが開くことで、長いコートの裾を左右に分けやすくなる
- 現代のセンターベントには、ハッキングジャケットやライディングジャケットの影響が残っている
- 現代のスーツにつながるラウンジジャケットは、19世紀には田舎での滞在やスポーツなどにも使われていた
- 現在のジャケットには、センターベント、サイドベンツ、ノーベントなどの仕様がある
- ベントは単なる装飾ではなく、動きやすさや服の用途、フォーマル度と関係してきたディテールである
普段は何気なく目にしているスーツも、細かな部分に注目すると、かつての人々の暮らしや服装文化が今も残っていることが分かります。
次にスーツを着たり見かけたりしたときは、背中の切れ込みにも注目してみると、これまでとは少し違った見方ができるかもしれません。

