犬の優れた能力と聞くと、まず「鼻のよさ」を思い浮かべる人は多いでしょう。しかし、その能力が実際にどこまで細かな違いを捉えられるのかは、意外と知られていません。
第111回雑学調査レポートでは、そんな「犬」に関する雑学の第2弾をご紹介していきます。

犬は人がストレスを感じたときの「におい」を嗅ぎ分けられる
緊張しているときや気分が落ち込んでいるとき、愛犬がいつもより近くに寄ってきた経験がある人もいるかもしれません。
犬は人の表情や声、体の動きなどから多くの情報を受け取っています。さらに研究では、人がストレスを感じたときに生じる「においの変化」も、犬が感じ取れる可能性が示されています。
2022年に科学誌『PLOS ONE』へ掲載された研究では、人が普段の状態にあるときと、短時間の心理的ストレスを受けた直後の呼気と汗を採取し、犬がその違いを嗅ぎ分けられるか調べました。
実験で犬に見せたのは、人そのものではありません。表情を見ることも、声を聞くこともできない状態で、呼気や汗を採取したサンプルのにおいだけを手掛かりに判断させています。
その結果、訓練された犬は、ストレスを受ける前と後のサンプルを高い精度で区別しました。
つまり、人が強い緊張やプレッシャーを感じると体内でさまざまな変化が起こり、その変化が「犬には嗅ぎ分けられるにおい」として現れる可能性があります。
実験では93.75%の確率でストレス後のにおいを当てた
2022年の研究では、まず53人から呼気と汗のサンプルが集められました。その後、実験の条件を満たした36人分のサンプルが、犬による識別テストに使われています。
参加者は最初に安静な状態で呼気と汗を採取されました。
その後、「9000から17ずつ引き続け、その答えを声に出す」という暗算課題を3分間行います。簡単そうに見えますが、時間や正確さを意識しながら計算するため、心理的なプレッシャーがかかるように設計された課題です。
暗算が終わると、すぐにもう一度呼気と汗を採取しました。
研究では、参加者本人が答えるストレスの自己評価などから、課題によって実際にストレスが高まったことを確認しています。対面で実験に参加した一部の人については、心拍数や平均動脈圧の上昇も確認されました。
犬に提示されたのは、次の3種類です。
1つ目は、ストレス課題を行った直後の呼気と汗です。
2つ目は、同じ人から課題前に採取した呼気と汗です。
3つ目は、人の呼気や汗が付いていない未使用のガーゼです。
犬は事前に、ストレス課題後のサンプルを探すための訓練を受けています。
本番では合計720回の識別テストが行われ、そのうち675回で犬がストレス課題後のサンプルを正しく選びました。
つまり正答率は93.75%です。

3種類から適当に1つを選んだ場合、偶然正解する確率は約33%です。それと比べると、かなり高い数字だとわかります。
テストまで進んだ4頭の犬を個別に見ても、正答率は90.00%から96.88%でした。
ただし、この数字は犬なら誰でも同じ結果を出せるという意味ではありません。実験に参加した犬のうち、最終的な識別テストまで進んだのは、においを探すための段階的な訓練を受けた4頭です。
家庭で暮らしている犬が、訓練なしで93.75%の精度で人のストレスを当てられることを示した研究ではありません。
それでも重要なのは、犬が「別の人の体臭」を区別したのではなく、同じ人から短時間のうちに採取したストレス前後のサンプルを嗅ぎ分けたことです。
人の体に起きたわずかな変化を、犬がにおいとして感知した可能性が考えられます。
犬が嗅いでいるのは単純な「汗臭さ」ではない可能性
「ストレスのにおい」と聞くと、緊張して汗をかいたときの汗臭さを思い浮かべるかもしれません。
しかし、研究で考えられているのは、単に汗の量が増えたり、においが強くなったりする変化だけではありません。
人の呼気や皮膚などからは、「揮発性有機化合物」と呼ばれるさまざまな物質が放出されています。英語ではVolatile Organic Compoundsと呼ばれ、一般的には「VOCs」と略されます。
VOCsは蒸発しやすく、空気中へ広がる性質を持つ物質のグループです。
人の体では、呼吸や代謝、自律神経の働きなどが変化すると、体から放出されるVOCsの種類や量の組み合わせも変わる可能性があります。
強い緊張やプレッシャーを感じると、心拍数や血圧が変化したり、汗をかいたりするなど、体の中ではさまざまな反応が起こります。
こうした変化に伴って「体から出る化学物質の組み合わせ」も変わり、それを犬が嗅ぎ分けている可能性があります。
2022年の研究でも、急性ストレスによって生じたVOCsの変化を犬が手掛かりにした可能性が考えられています。
ただし、実験ではサンプルの化学成分まで細かく分析して、「犬がこの物質を嗅いでいた」と特定したわけではありません。
現時点では、人のストレスを示す特定の1種類の物質がわかっているわけではなく、複数の物質の組み合わせが変化している可能性があります。
ストレスのにおいを嗅ぐと犬の判断まで変わる?
犬が人のストレスに関連するにおいを「見分けられる」こととは別に、そのにおいを嗅いだ犬の行動が変わるのかを調べた研究もあります。
2024年に『Scientific Reports』へ掲載された研究では、18頭の犬を対象に、人がストレスを感じているときとリラックスしているときのにおいが、犬の判断にどのような影響を与えるのか調べました。
研究を行ったチームには『University of Bristol』の研究者などが参加しています。
実験では、犬にとって知らない人から採取した「ストレス時のにおい」と「リラックス時のにおい」を使いました。
まず犬には、2つの場所について学習させます。
一方の場所に器が置かれているときは、中に食べ物が入っています。
もう一方の場所に置かれた器には、食べ物が入っていません。
犬は何度か経験するうちに、「こちらなら食べ物がありそう」「こちらにはなさそう」と場所の違いを学んでいきます。
その後、研究者は2つの場所の間にある中途半端な位置にも器を置きました。
犬からすると、そこに食べ物が入っているかどうかはわかりません。
研究者は、そのような曖昧な場所に犬がどのくらい積極的に近づくのかを調べました。

犬が「期待しているか」を行動から調べる認知バイアステスト
この実験で使われたのは「認知バイアステスト」と呼ばれる方法です。
簡単にいうと、「良いことが起こるかどうかわからない場面で、動物がどのように行動するか」を見るテストです。
食べ物が入っているかわからない器へ素早く近づけば、「食べ物があるかもしれない」と期待している反応として扱います。
反対に、なかなか近づかなければ、「どうせ食べ物は入っていないだろう」と予測している反応として評価します。
研究では前者を比較的「楽観的」、後者を比較的「悲観的」な判断として扱っています。
もちろん、犬自身が「今日は悲観的な気分です」と答えたわけではありません。
あくまで、食べ物を期待して近づくまでの行動から、犬の情動状態や判断の傾向を推測するための方法です。
人のストレス臭があると一部の場面で犬が慎重になった
2024年の研究では、人のストレス時のにおいが提示されたとき、犬の行動に変化が見られました。
特に変化が確認されたのが、もともと「食べ物が入っていない」と学習した場所に近い曖昧な位置です。
論文ではこの位置を「near-negative」と呼んでいます。
ストレス時のにおいがある条件では、犬がこの場所の器へ近づくまでに時間がかかる傾向が確認されました。
研究者は、犬が「ここには食べ物が入っていない可能性が高そうだ」と判断し、より慎重になった可能性を考えています。
言い換えると、人がストレスを感じているときのにおいが、犬に「少し悪い結果を予想する」ような判断をさせた可能性があるということです。
これは野生動物を考えると、ある意味では合理的な行動でもあります。
周囲に危険を感じている仲間がいる場合、積極的に行動するより慎重に動いたほうが、安全につながる場面があるためです。
「ストレス臭を嗅ぐと犬は悲観的になる」と言い切れるわけではない
2024年の研究結果は興味深いものですが、すべてのテストで犬の行動が大きく変わったわけではありません。
実験では、食べ物がある場所とない場所の間に3つの曖昧な位置が用意されていました。
そのうち、人のストレス臭による明確な変化が確認されたのは、「食べ物がない場所」に近いnear-negativeの位置でした。
さらに詳しく分析すると、ストレス臭が3回目のテストセッションで提示されたときに影響が確認されています。
2回目にストレス臭を提示した場合には、同じような明確な変化は確認されませんでした。
また、犬は実験を繰り返すうちに、「この場所には食べ物が入っていないらしい」と学習していきます。
そのため、においの影響だけでなく、テストを繰り返したことによる学習も犬の行動に影響した可能性があります。
一方で、ストレス臭とリラックス臭を提示する順番によって結果が異なったため、単純な反復学習だけですべてを説明することも難しいと考えられています。
研究では、人のストレスに関連するにおいが、犬の感情やリスクの判断、学習に影響する可能性があると解釈されています。

飼い主ではない知らない人のストレス臭にも反応した
2024年の研究で使われたにおいは、それぞれの犬の飼い主から採取したものではありません。
においの提供者として11人が参加し、その中からストレス課題に対してはっきりとした反応を示した3人のサンプルが犬の実験に使用されました。
この3人は、実験に参加した犬にとって知らない人物です。
つまり犬は、「いつも一緒に暮らしている飼い主の体臭が普段と違う」と気づいたわけではありません。
知らない人がストレスを受けたときのにおいでも、犬の判断に影響した可能性があります。
2022年の研究でも、犬は人の表情や声を確認できない状態で、ストレス前後の呼気と汗を嗅ぎ分けています。
犬が人の状態を知るときには、表情や声だけでなく、においも重要な情報源になっている可能性が見えてきます。
「飼い主の緊張はリードから伝わる」だけではないかもしれない
犬のトレーニングでは、飼い主やハンドラーの緊張が犬に伝わることを説明するとき、「緊張はリードを通して伝わる」といった表現が使われることがあります。
人が緊張すると、無意識のうちにリードを強く握ることがあります。
体がこわばったり、歩き方が変わったり、声が少し高くなったりする場合もあるでしょう。
犬はこうした小さな変化を手掛かりに、人の状態を判断できます。
しかし2024年の研究からは、それだけではなく「におい」も情報源になる可能性が示されました。
『University of Bristol』は研究結果を紹介する中で、人のストレスはリードだけでなく、空気を通じても犬へ伝わる可能性があると説明しています。
たとえば動物病院へ犬を連れて行くとき、飼い主自身が「嫌がらないかな」「診察は大丈夫かな」と緊張することがあります。
トレーニング中に犬が思い通りに動かず、飼い主が焦ってしまう場面もあるでしょう。
そのとき犬は、人の声や姿勢、動きだけではなく、体から出るにおいの変化も何らかの手掛かりとしている可能性があります。
ただし、飼い主が緊張すれば愛犬も必ず不安になるという意味ではありません。
2024年の研究で調べられたのは、特定の条件で行った認知バイアステストです。家庭や散歩中、動物病院などでも同じ反応が起こるかどうかは、さらに研究する必要があります。
犬がこちらを見ていなくてもストレスの情報は届く可能性がある
犬が人の気持ちを読み取る場面というと、飼い主の顔をじっと見つめる姿を想像しやすいでしょう。
しかし、犬が受け取れる情報は視覚だけではありません。
声の高さや話し方、体の動き、姿勢なども手掛かりになります。
さらに今回紹介した研究からは、人が急性ストレスを受けたときに呼気や汗に生じる変化も、犬が嗅覚で感じ取れる可能性が示されています。
そのため、犬が飼い主の顔を見ていないからといって、人の状態に関する情報を何も受け取っていないとは限りません。
人間にはほとんど違いがわからない体臭の変化でも、優れた嗅覚を持つ犬には別のにおいとして感じられる可能性があります。
ただし、「今日は愛犬がそばから離れないから、自分のストレス臭を嗅ぎ取った」と個別の行動まで判断することはできません。
犬が人へ近づいたり、反対に離れたりする理由には、室温、物音、過去の経験、飼い主の動作、そのときの犬の気分など多くの要因があります。
人のストレスに関係するにおいは、犬が利用できる多くの情報の一つと考えると理解しやすいでしょう。
犬が何を嗅いでいるのかはまだ完全にはわかっていない
犬が人のストレスに関係するにおいを感じ取れる可能性は示されていますが、その仕組みについてはわかっていない部分も残っています。
まず、2022年の研究で使われたのは、暗算課題によって短時間に起こした「急性ストレス」です。
仕事や人間関係などによって何日、何週間も続く慢性的なストレスでも、同じように犬がにおいを区別できるかどうかは、この研究からは判断できません。
また、93.75%という高い正答率を出した犬は、においを探して正しいサンプルを示すための訓練を受けています。
一般家庭の犬が日常生活の中でどこまで細かくストレス臭を嗅ぎ分けているのか、さらにその情報を実際の行動にどう利用しているのかについても、まだ詳しくわかっていません。
犬が具体的にどのVOCsを手掛かりにしているのかも特定されていません。
「ストレスのにおいを作る1つの物質」があるというより、ストレスによって複数の物質の量や組み合わせが変化し、その全体的な違いを犬が感じ取っている可能性があります。
2024年の研究も対象となった犬は18頭です。また、においを提示する順番や、テストを繰り返すことで起こる学習との関係も確認されています。
今後、より多くの犬を対象にした研究や、家庭、動物病院、トレーニング施設など実際の生活に近い環境で研究が進めば、「人のストレスのにおい」が犬にどの程度影響しているのか、さらに詳しくわかってくると考えられます。
まとめ
- 犬は、人が急性ストレスを感じる前後の呼気や汗のにおいを嗅ぎ分けられる可能性がある
- 2022年の研究では、訓練された4頭の犬がストレス課題後のサンプルを93.75%の正答率で識別した
- 犬が手掛かりにしているのは、ストレスによって変化するVOCsなどのにおいの組み合わせである可能性がある
- 2024年の研究では、人のストレス時のにおいが犬の判断や行動に影響する可能性も示された
- 犬は飼い主だけでなく、知らない人のストレスに関連するにおいにも反応する可能性がある
- 犬は表情や声だけでなく、においからも人の状態に関する情報を得ていると考えられる
- 一方で、家庭犬が日常生活でどの程度ストレス臭を利用しているかや、具体的にどの物質を嗅いでいるかはまだ詳しくわかっていない
「鼻がいい」という一言では片づけられないほど、犬の嗅覚には驚くべき能力が隠されています。
これから愛犬がじっとこちらの様子をうかがっていたら、「何かにおいの変化に気づいたのかな」と少し気になってしまいそうです。

参考文献
- PLOS ONE「Dogs can discriminate between human baseline and psychological stress condition odours」
- Queen’s University Belfast「Stress has an odour and dogs can smell it – new research」
- Scientific Reports「The odour of an unfamiliar stressed or relaxed person affects dogs’ responses to a cognitive bias test」
- University of Bristol「Smell of human stress affects dogs’ emotions leading them to make more pessimistic choices」

